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三浦綾子『われ弱ければ: 矢嶋楫子伝』小学館文庫、1999年; 間野絢子『白いリボン: 矢嶋楫子と共に歩む人たち』日本基督教団出版局、1998年



 今回は女子学院の初代日本人校長であり、日本キリスト教婦人矯風会の初代会長を務めた矢嶋楫子の本を二冊紹介します。最近、津田梅子が新しい五千円札の肖像に選ばれましたが、恐らく津田梅子と並んで、矢嶋楫子は、明治期の日本の女子教育のパイオニアと言えるキリスト者女性です。


 矢嶋楫子は、1833年に幕末の熊本県上益城郡津森村の惣庄屋の家に生まれました。惣庄屋と言うのは江戸時代に多くの庄屋を束ねる役割を負っていたそうです。ですから農民身分の最上層の家柄で、親族には武家に嫁いだ人も多くおられたようでした。ただ楫子はそのような家の二男七女の六女として生まれました。両親は男子を期待していたのに六人目の女子が生まれたため落胆したのでしょう。お七夜になっても名前をつけてもらえなかったとのことです。


 そんな中で姉たちは、それぞれ士族の男性のもとに嫁いでいきました。三女の順子は横井小楠の高弟竹崎茶堂と結婚し後に熊本女学校の校長を務めます。四女の久子は徳富家に嫁ぎ、徳富猪一郎(蘇峰)、徳富健次郎(盧花)と言う二人の有名な文人の母となります。五女のつさ子は儒学者横井小楠の後妻になりました。楫子も林七郎という武士階級の男性と結婚しますが、すでに二度の離婚を経験していた曰く付きの人物で、二人の前妻との間に三人の子供がおりました。二度の離婚の原因は林七郎の酒癖が非常に悪かったからでした。楫子は25歳で結婚してから十年間忍耐しますが、その苦しみは尋常ではなく、精神的苦痛のために視覚障害を負ってしまった程だったそうです。しかしある夜、酒に酔った七郎の投げつけた小刀が子供を抱いていた楫子の腕に刺さり、怪我を負わせられた上、子供の命まで危険に晒されていると感じ、とうとう楫子は子供たちと共に実家に帰り、二度と林家には戻らなかったそうです。


 その後、楫子は自立して生きる道を求めて、当時東京にいた兄の直方の家に移ります。兄からは屋敷の管理を任されました。当時この家には何人かの書生たちが寄宿していたのですが、家計は赤字続きであったとのことです。楫子は女中たちの何人かに暇を与え、書生たちには屋敷の維持管理のための仕事を分担させて家計を立て直すことに成功しました。一方彼女自身は、当時築地にできた教員養成学校に通い、教員免許を取得して、桜川小学校の教員になります。ただこの時期、楫子は、兄の屋敷に寄宿していた東北出身の鈴木洋介という妻子ある男性と関係を持ち、妊娠してしまいます。彼女は生まれた子供を親族に預け、自分は教員の仕事を続ける道を選びました。そのような困難な中にあっても、彼女は教員としては優れた能力を発揮し、その評判も広がって行きました。


 ある時、彼女のもとに、ミセス・トゥルーという女性宣教師が訪ねてきます。新栄女学校というミッション・スクールの校長職を楫子に依頼するためでした。この時、楫子はまだ一度もキリスト教会の礼拝に出席したことはありませんでした。彼女の甥の徳富猪一郎は、熊本洋学校で学んだ際、米国人教師ジェーンズの影響でキリスト者となっており、そのことは知っていましたが、彼女は全くの未信者でした。それにもかかわらず、ミセス・トゥルーは彼女にキリスト教主義の女学校の校長職を引き受けることを求めたのでした。それくらい楫子の教師としての評判は高かったということだったのでしょう。或いはミセス・トゥルーは、彼女の誠実さを見通しており、校長職に就けば少なくともキリスト教会の礼拝に出席するようになると期待していたのかもしれません。


 新栄女学校は、後に桜井女学校と合併して女子学院となりますが、その学校の初代日本人校長に就くことを楫子は依頼されたのでした。驚くべきことに彼女はこの依頼を引き受けます。そしてその時からデビッド・タムソン宣教師の奉仕していた新栄教会に毎週集うようになり、やがて洗礼を受けるようになったのでした。受洗は明治12年のことであったそうです。


 女子学院での矢嶋楫子の教育方針の特徴について、彼女の親族でもあり、女子学院で学び、矯風会にも参加し、後に婦人参政権運動の指導者ともなった久布白落実はこんな風に書いています。「当時、校長の矢嶋楫子先生は口癖のように言われた。『あなた方は聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい。』」(『我弱ければ』11頁)実際、当時の女子学院に校則はなく、寮に門限もなく、全て生徒の自治に委ねられていたのだそうです。それくらいに楫子は一人一人の生徒の人格を尊重していたのでしょう。同時に当時のキリスト教主義の学校では聖書に基づく宗教教育が自由に行われており、生徒たちも聖書を熱心に読んでいた様子を伺うこともできます。楫子はそのような女子学院の宗教教育に自信を持っていたからだったのかもしれません。


 しかし女子学院の初代院長としての働きにもまして、日本キリスト教婦人矯風会の初代会長となり、女性による本邦初の社会運動の指導者となったことの方が、彼女の生涯の功績の中では高く評価されるべき業績であったように思われます。1886年(明治19年)、楫子が53歳の年に、アメリカの禁酒運動の指導者であったレビット女史が訪日して東京で講演会を開くことになりました。合計五箇所の講演に延べ2000人の女性が集まったとされます。レビット女史は米国のWomen’s Temperance Unionという団体から日本に派遣された女性でした。19世紀のアメリカでは三つの社会運動が相互に関係を持ちながら、また協力関係を維持しながら展開されていました。三つの運動とは奴隷解放運動、婦人参政権運動、そして禁酒運動です。この三つは相互に関連している運動でした。奴隷解放運動と婦人参政権運動は、アメリカ合衆国独立宣言に書かれている ‘All men are created equal’ という言葉の ‘All men’ の中に黒人と女性をも含めることを訴える運動でした。また禁酒運動は黒人奴隷と女性の人権擁護や女性の地位向上を求める運動と連動していました。なぜなら黒人奴隷たちは酒に酔った主人に度々暴力をふるわれていたからですし、多くの女性たちも同様に酒癖の悪い夫の暴力に苦しめられていました。ですから禁酒運動の主な担い手も女性であった訳です。


 レビット夫人の講演は、かつて酒乱の夫に苦しめられた経験のある矢嶋楫子にとって切実な内容を含んでいたのでしょう。そして講演会に出席した30人あまりの女性たちが中心となり、日本キリスト教婦人矯風会が設立されると、矢嶋楫子はその初代会長を務めることになります。この団体は当初、日本における禁酒運動を進める団体として発足したのですが、禁酒運動だけではなく、日本の女性の地位向上のために活動すると共に、一夫一婦制の確立や公娼制度の廃止をも訴えるようになります。


 発足間もない矯風会は早速1889年、大日本帝国憲法発布の年に、元老院に一夫一婦制の確立と公娼制度の廃止を求める建白書を提出しました。この建白書は、矢嶋楫子が、自由民権運動の指導者でもあった植木枝盛の協力を得て起草したとされるものでした。残念ながらその原稿は残されていませんが、日本人女性による初の社会運動団体(初期フェミニズム運動の団体)によって、日本人女性の人権擁護や地位向上のために明治政府に対してなされた最初の請願として画期的な意義を持つのではないかと思います。


 その後も矢嶋楫子は、矯風会を通じて、日本人女性の地位向上のために生涯に渡って奮闘努力を重ねました。矯風会は、公娼制度の廃止を実現する見通しをもてない状況の中で、廃娼運動を展開するのでした。これは娼妓に自主廃業をさせ、彼女たちを受け入れる寮を建設し、彼女たちの社会復帰を助けようとするものでした。そのような廃娼運動を続ける一方、晩年には彼女が88-89歳であった時にも、矢嶋楫子はイギリスやアメリカに渡り会議などに出席しています。しかし高齢の身にこの海外旅行はこたえたのかもしれません。彼女は帰国後病床にふすようになり、93歳でその生涯を閉じます。


 以上、矢嶋楫子の生涯をざっと振り返りましたが、ここに書いたことの多くは、三浦綾子による伝記的小説『我弱ければ』に基づいています。この伝記的小説は、恐らく既に出版されている矢嶋楫子の伝記に基づいて、多少解釈や脚色を交えながら、三浦綾子が書いたものだと思われます。なぜ脚色が混ざっていると思うのかというと、例えば恐らく矢嶋楫子の回心のエピソードは三浦綾子のイマジネーションによって書かれたものだと思われるからです。『我弱ければ』によれば、矢嶋楫子の回心は、新栄教会の主日礼拝の中で、ヨハネの福音書8章の姦淫の場で捕らえられた女性について語られた説教を通して、経験したものであると説明されています。


 しかし、今回紹介するもう一冊の矢嶋楫子伝『白いリボン』は、これとは少し異なる説明をしています。『白いリボン』によれば、矢嶋楫子がキリスト者となる決心をしたのは、彼女が校長室で使っていたキセルが元で失火し、ボヤを発生させてしまったにもかかわらず、彼女を招聘したミセス・トゥルーは責める言葉を一切口にしなかったことがきっかけであったようです。そのようなミセス・トゥルーの寛大さが、矢嶋楫子に受洗を決心させたようでした。そしてマタイによる福音書11章28節の「全て疲れた人、重荷を負っている人は、私の所に来なさい」という聖書の言葉によって、これまで自分の歩みの中で自らが犯してきた重荷(罪責)をイエス・キリストに預ける決心をした、とのことです(69-71頁)。


 この『白いリボン』も矢嶋楫子の伝記ですが、どちらかというと彼女の婦人矯風会の働きが中心に書かれています。『白いリボン』を読んで感じさせられることは、矢嶋楫子らが中心となって始めた矯風会の運動が、明治・大正・昭和にわたる日本における初期フェミニズム運動の重要な牽引役の一つとなったという事実です。残念ながら公娼制度の廃止は、戦後の新憲法制定後を待たなければなりませんでした。しかし女性の人身売買が明白な不正であり悪であることを日本の社会で最初に訴え、社会運動につなげたのが、キリスト者の女性たちであったということ、しかもそのリーダーとなった女性は、熊本県という男性優位の伝統の強い地域出身の女性であり、自身もそのような歪んだ伝統文化のために深い苦しみを経験していた女性であったこと、そのような女性が同胞の女性のための社会正義の実現を目指して闘ったという事実は、日本のキリスト教史の中に足跡を残すものだったと言えるでしょう。そして彼女たちの努力は、同時代の比較的多くの人々の共感と賛同をも得ることになりました。その結果として、矯風会に参集したキリスト者女性たちだけではなく、日本における社会正義を求める多くの著名な方々とも連帯の輪を広げることになったのではないかと思います。


 例えば、この本には田中正造の名前も登場します。足尾銅山鉱毒公害の問題を最初に国家と社会に訴えた人物です。なぜ足尾銅山の公害と矯風会が繋がるのかと言えば、足尾銅山の汚染物質は渡良瀬川に流されたために、それまで渡良瀬川の豊富な漁業資源によって生計を立てていた3000名もの漁民たちが職を失いました。また採掘に伴って銅山周辺の森林が伐採されたために、鉱毒に汚染された水を含む洪水が渡良瀬川流域で頻繁に発生するようになり、下流の農民たちも大変な被害を受けるようになったのでした。その皺寄せは貧しい家庭の若い女性たちに集中することになります。彼女たちは公娼として奴隷の如く売買され、性的搾取の対象とされてしまったのでした。田中正造は、渡良瀬川流域の農民・漁民たちのそのような窮状をも訴えていたのですが、矯風会はこのような訴えに応答し、困窮した農民・漁民の支援に協力した団体の一つであったのでした。


 またこの本には、救世軍の指導者、山室軍平と彼の妻幾恵子の名前も出てきます。山室軍平もレビット夫人の講演会に参加し、その感化を受けた一人だったようです。そして救世軍も矯風会と協力しながら禁酒運動と廃娼運動を展開したグループとして知られるようになります。


 またこの本には、婦人参政権運動の指導者であった市川房枝の名前も出てきます。彼女はキリスト者ではありませんでしたが、女子学院で学んでいたことのある女性でした。そして矢嶋楫子の親族である久布白落実とも接点を持っていた人物です。戦後には主に参議院議員として女性の地位向上のために尽力されました。


『白いリボン』に綴られた矢嶋楫子と矯風会の働きを読みながら、この団体の働きが、単にキリスト者の女性たちだけではなく、日本の社会の広範囲に影響を与え、共鳴する人々を得ていたことに気付かされます。現在もこの国でのキリスト教人口は1%に満たないとされますが、しかしそのようなマイノリティーに属する人々であっても、社会に一定のインパクトを与えることができるという事実は、とても勇気づけられることのように思います。


 日本の社会には男尊女卑の伝統が今も根強く存在し続けています。特に現在の国家体制の起源である明治維新を実現したイデオロギーは伝統的色彩の強いものです。戦後の日本国憲法の社会思想や家族観・結婚観などを排して、もう一度日本の伝統的家族観や性役割を復興しようとする人々は、今後もこの国の政治や社会に影響を与え続けることでしょう。そういう国にあって、男女が平等な社会を実現するための努力は、これからも続けられなければならないのだと思います。同時に、すでに明治期から、矢嶋楫子を始めとして、女性の地位向上のために勇気を持って主張し続けていたキリスト者の女性たちが存在していたことによって、150年前と比較し、日本の女性を取り巻く社会的環境は改善された面があったことは確かであると思います。この事実は、これからも記憶されるべき歴史であるように思いました。

 


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